日本のカフェなどでよく耳にする、おしゃれの代名詞ボサノヴァ。ブラジルでは、滅多に聞くことがありません。
実は中級階級の音楽で、ブラジル国民はあまり聞きません。
今回は、ボサノヴァの名曲「イパネマの娘」を紹介します。
日本で一番聞かれているブラジル音楽、イパネマの娘。
モデルとなった女性がいることをご存知でしょうか?
ボサノヴァの音楽の歴史から、イパネマの娘が誕生した場所まで紹介したいと思います。
サンバとジャズの影響を受けたボサノヴァの歴史
ボサノヴァは、サンバから派生した音楽で、
リオデジャネイロの南地区、イパネマ地区を中心に、1950年代末に生まれました。
João Gilbertoを中心に歌の会が開かれ、ほとんどの演奏メンバーは、大学卒業の中級階級の人たちで、ブラジル国民の音楽ではありませんでした。
ボサノヴァは、ジェズの影響も受けており、ささやくように歌うのはジャズの影響です。
1960年代に、TomとViníciusのディエットと、João Gilbertoを中心に、色んな歌手がボサノヴァを歌い、ボサノヴァは確固たる地位を築きました。
TomとViníciusは、英語版のイパネマの娘を、“My Way”や“New York, New York”で有名なFrank・Sinatraと共演しました。
イパネマの娘は実在した!?
イパネマとは、リオのイパネマビーチを散歩する魅力的な女性への憧れを歌ったものです。
その女性とは、Heloísa Pinheiro(通称 Helô Pinheiro)という名前の女性。
一瞬で有名になった「イパネマの娘」
Heloísaがモンチネグロ通り(現 Vinícius de Moraes)を歩いていた時、通称Veloso(現 garota de ipanema)というバルがあり、通る時に、二人の男性が呼びかけたことに気がつきました。その二人の男性が、「イパネマの娘」の作詞家と作曲家であるTomとViníciusでした。
ある日、知人で有名な写真家により、HeloísaはTomとViníciusが自分のことを曲にしたことを知りました。
発売した3年後に、「誰がイパネマの娘なのか?」と話題になり、色んな娘が名乗り出ました。写真家から聞いていたので、Heloísaは自分だとは思っていたけど、証拠はありませんでした。
「Manchete」という雑誌が家に電話をかけてきて、母親に取材許可を求めました。当時、Heloísaは17歳でした。
Vinicioは、本当のイパネマの娘を公開したかったので、Heloísaと面会したかった。結果的に面会が実現でき、三人は感動的な再会をしました。その時、二人はHeloísaに「あなたは、私たちの女神」と言ったようです。
雑誌に記事が掲載後、世界中から取材が殺到しました。
(ちょっと小話)
2016年リオオリンピック、パラリンピックのマスコットキャラクターの名前は、
イパネマの娘の作詞家と作曲家である、TomとViníciusが由来となっています。

「イパネマの娘」と縁が深いレストラン
リオに行ったら、「イパネマの娘」が作られた場所であり、
縁が深いレストランに行かないと!
1949年Bar Montenegroとしてオープン。
しかし、常連客の間では、オーナーの名前から、Bar do Velosoと呼ばれていました。
1975年、今のオーナー達の手に渡り、「Garota de Ipanema」になりました。

今まで大きな改修工事は3回行われていますが、有名な常連客たちの写真は残されています。

ここの名物は、お肉を自分で焼きます。

一皿で四人分くらいの量がきます。

ガーリックパンは、
程よいニンニク風味が美味しく、お肉との相性も良いので、
頼む価値があります。
壁には、「イパネマの娘」の楽譜が!

今回紹介したお店は、こちら!
Restaurante e Bar Garota de Ipanema
R. Vinícius de Moraes, 49 – Ipanema, Rio de Janeiro

まとめ
日本では、おしゃれの代名詞ボサノヴァ。ブラジルでは、殆ど聴かれません。
ボサノヴァは中級階級の音楽が理由のようです。
今回は、イパネマの娘について紹介しました。
「イパネマの娘」のモデルになった女性は、実在した!?
縁のあるレストランでは、オススメの料理まで紹介していました。
リオに行かれた際は、ぜひ行かれてみてください。